2010年7月13日

連鎖する偶然


初夏の候、皆様いかがお過ごしでしょうか。
本日は、訓練生ヒーコがブログを投稿する事になりました。
よろしくお願いします。

私はアソシアへ来てから何かしらの偶然の連続に
驚きを感じております。まず、アソシアのスタッフの出自です。
私の把握しております9名中6名が読谷村出身です。

20年以上前、私は「読谷村の戦跡・基地・文化めぐり」の
バスツアーに参加させていただきました。
バスガイドの方がとても素適な方で、私たちにわかりやすく案内されておりました。
読谷村のご出身で自らの体験を交えながらの説明は私の胸を打つのに十分でした。
ツアーコースを思い出しながら振り返ると、
比謝矼の海軍特攻艇跡→トリイステーション→像のオリ→シムクガマ→
チビチリガマ→やちむんの里→座喜味城跡、

そして恩納村のきせん原や嘉手納町の安保の丘、
あたりを廻ったと記憶の中にはあります。
資料を見ながら書いてるわけではないので、
きっと抜けている個所もあるだろう事をご了承ください。

それぞれ、訪れた場所でセンセーショナルな案内がありました。

まず、比謝矼で「特攻艇」という言葉をその時初めて聞きました。
ゼロ戦の特攻隊はよく用いられるのですが、特攻艇というのはベニヤ板で造った
敵の戦艦への自爆を覚悟での突進して行く作戦のための船で、
日本軍の作戦の一つで若い兵士たちが乗り込んで、
消息は不明という解説付けられていました。
像のオリ、トリイステーションは現存する米軍基地です。
ガマは皆さんご承知の通り、沖縄戦当時に集団自決が行われてしまった。
教科書問題でもよく取り上げらるテーマです。筆舌に尽くしがたい悲しい事が
起きてしまったというのは、ガマに残された遺品、遺骨、
そして生存者の証言から分かりました。

やちむんの里、「実はここは不発弾の爆破処理場でした。
基地から返還されて、今では文化を育むために利用されております。
人間国宝の方もここで窯をかまえて創作なされております。」
という説明の後に実際に見せて頂いた窯は、バスガイドの方の恩師ののぼり窯でした。
座喜味城跡では、バスガイドの方のモノの見方を伺わせる説明がありました。
「立派な城を造る裏には名もなき人々の労力と富が犠牲的に用いられます。
この城を築いた護佐丸とう人物は奄美では人さらいのようにも言われています。」
小さな沖縄に何とお城跡が多い事でしょうか。

恩納村のきせん原、ここでバスガイドの方は
「私の主人は新聞記者です。ここの県道越えの実弾射撃訓練に反対して、
着弾地に人間の盾となって侵入し逮捕されました。今も裁判中です」
と説明した後に「きせん原」という唄を涙を流しながら歌って下さいました。
あの涙の重みを私は後になって、つくづく思い知らされております。

嘉手納町の安保の丘へ向かいながら、バスガイドの方は「私はベトナムからいらっしゃった方々をご案内させて頂いたことがあります。ここ嘉手納基地からベトナム戦争当時、後に様々病気を生まれながら抱える子供達を生み出す事となった枯れ葉剤を散布した爆撃機が飛び立ちました。と説明せざるを得ませんでした。その時のベトナムの方々の表情は何とも言えない複雑なものでした。」

こう案内して下さいました。

ここまで書けば、当時私たちを案内して下さった方が誰なのか
推測して頂ける方も多いでしょう。
有名な方です。現在、参議院議員としてご活躍されております。

この時のバスツアーをきっかけに読谷へ興味を抱き、
図書館の書棚に有った本の参考文献の中から『読谷村社会計画報告書』
というタイトルの某研究所がまとめた調査報告書の存在を知り、
沖縄総合事務局へ行き、報告書の全部をコピーさせて頂く事に成功しました。

この報告書から読み取れたのは、第一に共同体(字)
が生きているという事でした。

これを手掛かりに私なりに読谷を勉強の場として選択して、
村役場、各字の公民館などへ足を運び社会の原型としての
共同体の勉強をスタートする事になりました。

今、アソシアへ一利用者として参加して、
私が読谷へ調査の為に訪れていた頃にはおそらく幼かったか、
まだこの世に生を受けていなかったかもしれない、
ここのスタッフの皆さんと接していて、
内心ほほ笑ましくて、照れくさい心境なのです。
そして、この事業が成功する様に心から願わずにはいられないのです。

写真はスタッフ最年少の安里さん、22歳です。どうぞよろしくお願いします。